「紅楼夢」の料理談義
―名作を舌で味わう―(その6)

蟹の宴と詩歌の夕べ

 中国には、「香橙螃、蟹の月、新酒菊花の天」という言い回しがあり、秋の季節に「橙、柚子の香りを愛で、蟹を賞味し、月を眺め、新酒を味わい、菊を鑑賞する」楽しみを表現している。

 まさにこの精神を体現して、紅楼夢でも、家の人々が蟹を食べ、秋の草花を愛でながら、詩を吟ずる情景が描かれている(第38章)。
 この詩会(詩社)が開かれた裏には、賈家の人々の蟹好きをうまく活用しようとした2人の美女、湘雲と宝釵の企みがあった。

 詩歌の好きな湘雲は、詩の会を開きたいと思って宝釵に相談する。すると、思慮深い宝釵は、詩の会といっても美味しい料理も出せねばならず、費用がばかにならない。親御に無心すると小言を言われかねない。賈家の人たちは皆、蟹は大好物だから、蟹をご馳走するといえば、誰しも来てくださるであろう、幸い自分には「つて」があり、蟹が手に入るから、それで皆楽しめるであろう、と提案する。
 それが、蟹を食べて詩を詠む宴会が催された背景だったのである(第37章)。

湘雲 東京藝術大学附属図書館
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 この宴会では、生の蟹を手ずから(あるいは周囲の者に頼んで)剥いて酢生姜をつけて食べている。
 袁枚も「蟹は単独で、薄塩で煮て自分で剥いで食べるのを妙とする」と言っているが、紅楼夢の描く宴席では、まさにその通り実行されている。

 しかし、蟹は「寒性」を持ち、たくさん食べると腹を壊すとされ、現に、紅楼夢の中でも賈家の女主人ともいえる「ご隠居さま」が、皆に「あまり沢山食べない方がよい。これはおいしいことはおいしいけれど、あまり良いものではない。食べ過ぎるとお腹が痛くなるからね」と注意を促している。

 また、蟹は自分で剥いて食べるだけに、各々手が生臭くなる。『紅楼夢』の宴席では、それを利用して嫌がらせをする場面が出てくる。

 若奥様の熙鳳が、ご隠居様の侍女鴛鴦に、「夫(賈璉)があんたに『ホの字』のことは知っているでしょう」と言い、「ご隠居さまにお願いして、あんたをお部屋さん(原文は小老婆)にしたいんだってよ」と言うと、皆の手前もあってか、鴛鴦は「それが若奥さまといわれるお人のおっしゃる言葉でしょうか」と怒り、蟹で生臭くなった手を熙鳳の顔になすりつけようとするのであった(第38章)。

 また、蟹を食べるのにつきもののお酢が、中国では嫉妬の瞥えに使われることをあら ためて想起させる場面が、この後に登場する。
 熙鳳が慌てて鴛鴦に謝ると、今度は鴛鴦の同僚の侍女琥珀が、そんなことになったら、同じく賈璉が心を寄せている平児(熙鳳の侍女)が黙っているまい、「ほら、平ちゃんたら、蟹はまだ二匹も食べていないのに、お酢だけは一皿分ちゃんと飲んでしまっているわよ」と当てこすって、平児が嫉妬しているとからかった。これを聞いた平児は怒って、いきなり手にした蟹を琥珀の顔になすりつけようとしたのだった。

 このように、蟹の食べ方は、紅楼夢の中では、人々の間の戯れ、冗談、嫌がらせなどの素材として、巧妙に使われているのが興味深いところである。
 ともあれ、蟹はどうしても自分で剥いて肉をほじくって食べることになるので、行儀作法を重んじる正式の晩餐会で蟹を出すには工夫を要する。たとえば、1992年、天皇訪中の際、上海で上海蟹が出された際は、蟹の甲羅にあらかじめ剥いておいた蟹肉が盛り付けられていたといわれる。

 逆に、紅楼夢の内輪の宴会で、一同が蟹を剥くのをむしろ楽しみ、また、それをいたずらに使っている情景には、無礼講の食事による家内の一体感の高まりがみてとれるといえよう。



小倉和夫(おぐら・かずお)

国際交流基金顧問、全国農業会議所理事、青山学院大学特別招聘教授。1938年東京生まれ。東京大学法学部卒業、英国ケンブリッジ大学経済学部卒業。外務省文化交流部長、経済局長、外務審議官等、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使、国際交流基金理事長を歴任。1972年日中国交正常化交渉に外務省事務官として参与、70年代に香港に在住。「日中実務協定交渉」など国際関係関連の著書多数。