「紅楼夢」の料理談義
―名作を舌で味わう―(その8)

吸い物の妙味

 中国料理ではお吸い物(中国語の「湯(たん)」)が重要な地位をしめてきたように、紅楼夢の中でもしばしば登場する。

 もっとも、食事の一環として出される吸い物、あるいは汁ないしスープとは別の「湯」もある。たとえば、「酸梅湯(さんめいたん)」がある。これは、甘酸っぱい一種の薬湯で、酔いつぶれた湘雲がふらふらしていると、酔い醒ましに濃いお茶を飲み、さらに「醒酒石」を舐めた後、酸梅湯を飲んでおり(第62章)、ここでは、酸梅湯は酔い醒ましの薬湯として用いられている。
 また、別のところ(第34章)では、折檻を受けて憔悴している宝玉が、喉が乾いたので酸梅湯を飲みたいというと、侍女の襲人しゅうじんは、酸梅湯は収斂性のものであり、折檻を受けた宝玉は、熱や血がまだ体内を巡っているだろうから、心臓を刺激するおそれがあり、飲まない方がよいと説得している。ここでも、酸梅湯は薬効のある汁として登場している。

襲人 東京藝術大学附属図書館
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 ちなみに、ここで、襲人がさかんに酸梅湯を飲みたいとせがむ宝玉を説得している情景 は、襲人が心底から宝玉を愛しく思い、その世話に打ち込んでいる様子が浮き彫りになっている。

 なお、酸梅湯は、従来、梅湯、白梅湯、黄梅湯、醍醐湯などいろいろに言われていたものが、清朝時代になって酸梅湯という名前に定着したとも言われる。ちなみに、酸梅湯は水滸伝(第23章)にも現れ、また、清朝のある文人は、「銅碗声声街里喚、一瓶冰水和梅湯」と詩歌に詠ったほどで、屋台でよく売られていたようだ。

 他方、本格的スープとして紅楼夢に登場するものを列挙すると、次のようになる。

・やや酔いの回った宝玉が周囲の勧めで飲む「筍と鶏の皮のスープ」(第8章)
・賈蓉の妻の弟に元気をつけるために飲ませる「燕の巣のスープ」(第10章)
・熙鳳が作ったものを宝玉が飲んで、おいしかったと述べる「若葉と蓮房の吸い物」(第35章)。
・熙鳳が作ってご隠居さまに届けたところ、おいしかったと言われる「雉の雛の吸い物」(第43章)
・宝玉が熱いまま一口すする「ハムと筍の吸い物」(第58章)
・宝玉が、ご飯にかけて食べると甘くて香ばしい味がすると言った「蝦団子と鶏の皮のスープ」(第62章)

 こうした記述で注目される事は、スープを飲んでいる人物は主として宝玉であり、それも、周囲から勧められたかたちで飲んでいることである。これは、宝玉が、いささか蒲柳の体質であり、また周囲もそれに気を遣っていることが暗示されている。

 スープはまた、一種の儀式の一部として飲まれることがある。例えば、元宵節の食事では、清湯(ちんたん)、すなわち、クリアスープが出ると、食事の終わりの合図であり、客は料理人に御祝儀をあげて席を立つのが伝統的風習であったといわれる。

 それだけに、おいしい吸い物は、皇帝も含む高官たちにもてはやされることもあったようで、「おいしいスープは皇帝に微笑みを与えた」云々という詩すら書かれているという。

 なお、吸い物は熱いため、その飲み方ないしサービスの仕方が、紅楼夢において、若干深い意味を示唆するものとして描かれている。

 第58章の記述にそれが現れている。

 宝玉は吸い物を飲もうとして、「熱っちっち」と悲鳴をあげると、侍女の筆頭格の襲人は、そばにいた召し使いの芳官(ほうかん)に吸い物のお椀を渡して、「あんたも少しはお給仕の稽古でもしたら」と言う。それを受けて、芳官は、二、三度ふうふうと結構上手に吹いた。

 その様子を側で見ていた芳官の義母が、芳官が失敗してお椀でも壊してはと思い、自分が吸い物を吹こうと申し出る。すると、宝玉の侍女の一人晴雯せいぶんが、何を生意気なことをするのかと怒鳴りつける。

 こうした情景は、主人の宝玉が飲もうとする熱い吸い物を冷ますために「吹く」という行為が誰に許されるかどうかが、召し使いたちの地位を決める一つの要因になることを暗示しているといえよう。

小倉和夫(おぐら・かずお)

国際交流基金顧問、全国農業会議所理事、青山学院大学特別招聘教授。1938年東京生まれ。東京大学法学部卒業、英国ケンブリッジ大学経済学部卒業。外務省文化交流部長、経済局長、外務審議官等、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使、国際交流基金理事長を歴任。1972年日中国交正常化交渉に外務省事務官として参与、70年代に香港に在住。「日中実務協定交渉」など国際関係関連の著書多数。