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エッセイ 『水滸伝』から見えてくる中国社会のメンタリティー

著者:宮本雄二(当財団理事長)

 1969年に外務省に入ると、戦前の中国で学び、仕事をした経験を持つ先輩たちが多くいた。彼らから「中国人や中国社会のことを知りたければ、共産党の文献ではなく、三国志演義や水滸伝といった本を読むことだ」と教えられた。確かにそうだ。そこで現在の中国を読み解くカギが見つからないかと、この夏休みに久しぶりに『水滸伝』(駒田信二訳、講談社文庫全8巻)を読み返してみた。

 そこは正に義侠の世界であった。いつも思うのだが、中国の物語に登場する人物は実に人間くさい。『水滸伝』の中心人物の1人が宋江で、108人の英雄豪傑のトップに立つ実に立派な人物なのだが、いつも泣いてばかりいる。義と情にほだされて泣くのだが、こんなに泣かなくても良いだろうと思うくらいに泣く。そもそも悪い女に引っかかって殺してしまい罪人となり、梁山泊にたどり着くのだが、天下の英雄の物語としては、パッとしない。

日本の英雄豪傑は泣いたりしないし、悪い女にだまされた物語から話が始まることもないだろう。日本では予め作られた完璧な英雄豪傑のイメージの中に物語がはめ込まれる。これに比べると、中国ではイメージそのものがもっと人間くさく、現実的なのだ。

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『水滸伝』――画像は講談社BOOK倶楽部より

 翻訳者であり中国文学者でもある駒田信二氏は、『水滸伝』は文字どおりの大衆文学であり、物語の基調は素朴な英雄崇拝だという。中国の大衆は、日本的な完璧な英雄豪傑なるものは、そもそもこの世に存在するはずないと思っているのかも知れない。こう考えると、中国指導者に対する中国国民の目線は、われわれが推定するほど厳しいものではなく、もう少し緩やかなものだと見ておいた方が良いだろう。

『水滸伝』の終わり方にも考えさせられる。108人の英雄豪傑は、地方の小さな悪に対しては敢然と立ち向かい、悪人どもを躊躇なく皆殺しにしてしまう。これに庶民は拍手喝采をする。ところが中央では、皇帝は良い人だということになっているが、周囲の奸臣たちの言いなりなのだ。おかげで、108人の英雄豪傑たちは、この中央の悪人どもに、これでもかというくらい悪さをされる。それらを跳ね返しながら成功物語を続けるのだが、中央の悪人どもには何の手も出せず、最後は108人の方が命を落とすか野に下って『水滸伝』は終わりとなる。

 宋江が一貫して口にし続けるのは、皇帝と王朝に対する忠義であり、その忠義なるもののために奸臣たちの不正義は結果として許される。おそらく、オチはこれしかないよね、というのが王朝時代の庶民の感覚だったのだろう。

 

 孫文も毛沢東も、このような庶民感覚の中で革命を推し進めた。革命が成って70有余年、今の庶民感覚を推し量ることは容易ではないが、それでも依然として王朝時代の図式が当てはまる気がする。「義」の問題が自分たち自身の問題として降りかかってこない限り、庶民が動くことはないだろう。地方と中央は違うのだ。

 ただし、中国革命が国民運動となる嚆矢となった1919年の五・四運動は学生運動であった。問題を敏感に感じとり、遠くの問題が実は近くの自分の問題でもあると認識できるのは、やはり学生たちなのだ。その中国において大学進学率は5割を超えた。もはや庶民だ、学生だと言っている時代ではない。そういう時代の国民の反応が、どういうものになるのか、実に気になる昨今である。

 

 

(本稿は、2023年8月28日、新潮社フォーサイトに掲載された筆者の投稿の一部を転載したものである。)

【著者 プロフィール】
宮本雄二。1946年、福岡県生まれ。京都大学法学部卒業後、1969年に外務省に入省。軍縮課長、中国課長、米国アトランタ総領事、軍備管理・科学審議官(大使)、駐ミャンマー大使、沖縄担当大使などを経て、在中国日本国大使館特命全権大使を歴任(2006~2010)。2010年に退官。現在は、一般財団法人日本アジア共同体文化協力機構(JACCCO)理事長などを務める。

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