「紅楼夢」の料理談義
―名作を舌で味わう―(その13)

―熊掌をめぐるエピソード―

中国料理で珍味といわれ、伝統的な格式ある宴席や、いわゆる満漢(まんかん)全席(ぜんせき)(清朝時代の宮廷で振る舞われた中国史上最も豪華ともいわれるコース料理)に登場する料理として、燕巣やナマコ、(ふか)(ひれ)などと並んで熊掌(熊の手のひら)があることはよく知られている。

紅楼夢の物語においても、熊掌が登場する。それは、賈家にいわば年貢を納めている庄屋というか地方の豪農が、年始の挨拶に賈家に納めた特別の供物の中に、ノロジカ、シャム豚、羊、雉などと並んで「熊掌二十対」が含まれていたとされていることである(第五三章)。

賈宝玉(東京芸術大学附属図書館所収 蓋奇作)@Public domain

熊掌は、伝統的な大宴会には欠かせないものであったようで、一説によると、江戸時代、長崎在住の中国人の行う大きな宴会では、第一級の宴会には熊掌、鹿の尾、鱶鰭が欠かせないもので、第二級の宴会では、熊掌と鹿の尾は供されず(ただし鱶鰭は欠かせない)、第三級では、鱶鰭も省かれたといわれており、このように熊掌は特別に珍重されたようだ。

また、中国本土では、清朝の(けん)(りゅう)(てい)時代、一七九五年一二月に行われた退位と新帝への譲位を記念して開催された国家的な大祝賀イベント「満漢全席」の大宴会では、燕巣やナマコと並んでフナの舌と熊掌のとろみ煮(鯽魚舌燴熊掌)が供されたとされる。

このように熊掌が珍重されたのは、それが、特別味が良いとか珍しい食材であったことよりも、むしろ、それを供することが、主人側の威信を示すシンボルとみなされていたからだともいわれる。

もっとも巷間、熊は手で蜂蜜の巣をとって食べるので、その手に蜂蜜の味がしみ込んで美味であるとの説があり、現にアライグマなどは鋭い嗅覚で蜂の巣を見つけ、ツメでこじ開けて蜜や幼虫を食べる習慣がある。けれども、通常、熊掌の料理は薄い肉片にゼラチン状のものが添えられているようで、美味と感じる人はそれほど多くないようだ。

いずれにしても、紅楼夢の中では、登場人物が熊掌を食べる場面はなく、ましてや、その調理方法への言及はない。このことは、熊掌が食べて美味な料理というよりも、高級料理の「形式」を象徴する役割を持つに過ぎないことを、暗示しているともいえよう。

小倉和夫(おぐら・かずお)

一般財団法人 日本アジア共同体文化協力機構 評議員
国際交流基金顧問、全国農業会議所理事、青山学院大学特別招聘教授。
1938年東京生まれ。
東京大学法学部卒業、英国ケンブリッジ大学経済学部卒業。
外務省文化交流部長、経済局長、外務審議官等、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使、国際交流基金理事長を歴任。1972年日中国交正常化交渉に外務省事務官として参与、70年代に香港に在住。「日中実務協定交渉」など国際関係関連の著書多数。