「水滸伝」の料理談義 -1
― 鵞鳥料理談義 ―
水滸伝の前半部分は、心ならずも罪を犯した侠客たちが流罪になって流されたり、牢に入れられたりしながら、やがて侠客の拠点である梁山泊に集まる過程を描いているが、この前半部分でしばしば登場する食材のひとつは鵞鳥である。
鵞鳥は、町で売っている際には糟漬けになっており、また、宴会などで食する際は煮物として登場する。
たとえば、破戒僧魯智深1がまだ魯達と呼ばれていた頃、かつて借金苦に悩んでいた金爺さんを助け、その後二人が偶然再会した際、喜んだ金爺さんは鵞鳥の糟漬けを買ってきて魯達に振舞うのであった(第四回)。また、のちに梁山泊の指導者となる宋江2は、江州に流された際、そこの著名な料亭潯陽楼で鵞鳥の糟付けを食べている(第三十九回)。
加えて、魯智深は、東京へ向かう道すがら、桃花村という場所で地元の名士劉太公に接遇された際、煮込んだ鵞鳥の馳走を受ける(第五回)。また、ごろつきから金持ちになった西門慶に対して、酒好きの行者武松3の妻でありながら、淫らな振る舞いを続ける女潘金蓮が誘いをかけて接待する際、金蓮の世話役の王婆は出来合いの鵞鳥の脂身の煮込みを買ってきて提供する(第二十四回)。
同じく、武松が恩州に流されるにあたり入牢した際、友人の施恩は武松に「煮込んだ二羽の鵞鳥」を施し、武松はこの二羽の鵞鳥を首枷にかけて出かけたという(第三十回)。
このように鵞鳥料理は、水滸伝にあってはごく当たり前の料理であり、格別珍味とされてはいない。
そもそも鵞鳥は、漢代の墳墓の発掘により、漢の時代から食されていたことが判明しており、古くから中国の食卓に上っており、水滸伝においてしばしば登場していることも不自然ではない。
また、鵞鳥は多くの鳥類と同じく、中国では伝統的に生きたまま取引されることが多かった。現に水滸伝でも、もともとは天子直属の軍の教頭でもあった林冲4が梁山泊へ向かう途中、大雪を避けて立ち寄った居酒屋で、「雪が鵞鳥の羽毛のように軒先に戯れている」光景を眺めるが、この描写には、鵞鳥が居酒屋などで食されていても不思議ではなかったことが暗示されている(第十一回)。とりわけ鵞鳥は、他の鳥に比べて草葉を餌とする面が強く育てやすいといわれ、そのせいもあってか、味はともかく、肉量が多いため、重宝されてきたともいわれる。

ところで、鵞鳥の料理の仕方については、水滸伝では糟漬けと煮物くらいしか出てこないが、宋の時代の宴会料理を記した書物によると、「鵞鳥の水かきのスープ」が載っているという(『中国人の食文化ガイド―心と身体の免疫力を高める秘訣』熊四智著、日中翻訳学院監訳、山本美那子訳、日本僑報社、二〇二〇年)。また、清代の著名な詩人であり食通の袁牧の「隋園食単」には、「雲林鵞」と称する次のような料理法が紹介されている。すなわち、鵞鳥を丸ごと一羽洗い、その腹に塩を擦り入れ、水に浸したネギを詰め込む。外面には蜜と酒を混ぜたものを塗り、酒と水を入れた鍋で鵞鳥を蒸す。そして、鵞鳥を水からあげて竹竿にかけ、かまどで茅の束をゆっくり燃やして鵞鳥の肉を焼いたのち、再び鍋に入れて蒸す、というのである。
また、十六世紀に書かれた奇書といわれる「金瓶梅」(ちなみに、この書には何人か水滸伝の登場人物が同じ名前で登場している)では、鵞鳥の丸焼き(第二十回および三十一回)、脂ののった鵞鳥の水煮の厚切り肉(第二十一回)。が登場している。
さらに、鵞鳥の脂を活用した「点心」が登場する。たとえば、「鵞鳥の脂で炒めた蒸し餅」(第三十五回)や、「玫瑰(ハマナスの漢名)の実と鵞鳥の脂を入れた小麦粉の蒸し餅」(第六十七回)などである。
鵞鳥の脂といえば、フランス料理でのフォアグラは、鵞鳥に無理やり大量の餌を与えて太らせて作り上げることで有名だが、中国では鵞鳥を神棚のお供えや贈り物に使うこともあったといわれる。
ともあれ、鵞鳥の脂や肉は、宋、元、明、清時代を通じて広く賞味されていたようで、庶民の世界が物語の背景として登場する水滸伝や金瓶梅の中で、鵞鳥がしばしば登場するのは、ごく自然なことといえよう。
人物点描
- 魯智深 元来は魯達という名の地方の警察長だったが、義侠心から金老人を苦しめている男を殺してしまい、魯智深と名を変えて仏門に入るも破戒僧となり、各地を放浪中知り合った仲間とともに梁山泊に入る。最後は、勝利をおさめた戦闘の後、都へ引き返す途次、杭州の寺院で大往生をとげる。 ↩︎
- 宋江 寛大な人柄であり、宋朝に忠節を尽くす梁山泊の首領。地方の書記を勤めていたが、誤って妾を殺してしまったことからいったんは逃亡するが、その後自首し流罪になって護送される途次、酒に酔って壁に反逆の詩を書いてしまったことから梁山泊に入り、やがてそこの首領格におさまる。 ↩︎
- 武松 虎を素手で殴り殺したことで著名。地方の歩兵隊長となるも、兄の武大の悪妻潘金蓮が男(西門慶)と語らって武大を毒殺したことを知って、二人を殺して自首し流罪となる。流罪先で典獄たちと諍いを起こし殺害、行者姿に変装して逃亡。放浪中に魯智深などと知り合い梁山泊に入る。やがて出家し、八十歳で往生する。 ↩︎
- 林沖 天子直属の軍隊の教頭を勤めていたが、無実の罪で流罪となり、護送される途次、護送の兵士に殺されそうになるが魯智深に助けられ、また、富豪の柴進との出会いもあって梁山泊入りする。晩年、戦闘に参加して生き残るが、都へ帰る途次病を発して亡くなる。 ↩︎
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小倉和夫(おぐら・かずお)
小倉和夫研究所 代表
一般財団法人 日本アジア共同体文化協力機構 評議員
1938年、東京都生まれ。
東京大学法学部卒業後、1962年に外務省に入省。英国ケンブリッジ大学経済学部卒業。
1972年の日中国交正常化交渉に携わり、1970年代は香港に在住。
北東アジア課長、文化交流部長、経済局長、外務審議官などを歴任。
駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使を務め、2002年に退官。
その後、独立行政法人国際交流基金理事長、青山学院大学特別招聘教授などを務める。


